710年に奈良に平城京ができ、794年に京都の平安京ができるまで、平城京は政治の中心でした。
奈良の大仏がある東大寺や、興福寺や薬師寺、あるいは唐招提寺などがある、魅力のある都です。
春日大社も興福寺も、もとは藤原一族のための社寺で、いかに藤原氏が権力を持っていたかがうかがえます。
藤原氏は娘を何人も天皇に嫁がせていますが、息子は1人も天皇家に入ることはなく、男系の天皇が今日(こんにち)まで続いています。
つまり天皇家が藤原氏によって乗っ取られることはありませんでした。
藤原道真は当時、最高の権力を持っていたわけですが、自ら天皇になるという気持ちは全く持ちませんでした。
藤原氏の先祖はアメノコヤネの命(みこと)ですが、天照大神の孫にあたるニニギノ命に付き従って瑞穂の国(日本)に降り立ってきました。
したがって自分たち(藤原氏)の役割は、天皇家を支えていくことだとの自覚があったようです。
他の豪族たちも「藤原氏は天皇家に取って代わるようなことをしない」と分かっていたので、少々の権勢は許容していたのではないかと推測されます。
事実、天皇家のピンチには藤原氏はよく頑張っていたように思います。