霊能力に囚われない

私自身には霊感や霊能力のようなものはないのですが、そういったものは(世の中には)当然にあると思っています。

科学が発達すると「この世的にちょっと不思議なこと」が影を潜めていくようですが、平安時代あたりだと陰陽師が普通に活躍していました。

一番有名なのは安倍清明(あべのせいめい)ではないかと思うのですが、その霊能力は抜きんでおり、平安京に結界を張る仕事を国から依頼されて行ったりしています。

高野山の修行僧などでも(修行の途中で)念の力だけで机を動かすことができたりすることがあるそうです。

が、そういったものは無視していかないと、逆に修行の妨げになってしまいます。

ちなみに霊能力と電気的な機能はよく似ているようで、スイッチが勝手にONOFFになったり、ラジオやデジカメが壊れたりする現象は、特定の人によく起こるようです。

ある科学者が体験した霊現象を「あれやこれや」と(うれしそうに)書いている本を読みました。

この世的に不思議なことでも「そんなこともあるだろう」と思っている私から見れば、別にどうってことはなく、「今日はこんな所へ行きました」とか「こんなものを食べました」とかの記述と同じで、大して意味はないわけです。

霊能力と心の修業とは別物で、そこを勘違いしていては極めて危険なのです。

ある霊能力に優れた女性が、神仏との会話を書いている本を読みました。

が、結局、その人の心のレベル以上の霊とは話ができず、神仏との会話のはずなのに、内容が随分と「俗っぽい」と感じたことがあります。

釈迦の霊能力(六大通力)の中で最高のものを「漏尽通力(ろうじんつうりき)」と呼び、それは「霊能力を隠してしまう」力なのです。

最初から霊能力がないのは、案外、とても幸せなことなのかもしれません。