海外旅行に行く時など、一体何冊の本を持って行ったらいいのかが分からなくなってきました。
このところ読むスピードがより速くなってきたからです。
私のカバンはいつも本でパンパンで、旅に向かうのに極めて「非機動的」な様相を呈しています。
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紙の重い本ではなく「キンドル(電子書籍)を持って行ったらいいのでは?」と英会話の先生などによく言われます。
が、やっぱり紙の本の方が読んだ気がするし「1冊読み終えたぞ」という達成感が違うような気がしています。
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渡部昇一先生は若い頃、恩師の自宅にお伺いし、その膨大な蔵書を見て感激し「自分も将来このような蔵書を持つのだ」と決めたのだそうです。
私も高校生の時に志賀大郎先生のご自宅にお伺いし、畳1畳分を除いて、あとは全部本が天井近くまで積み上げられた部屋を見て、度肝を抜かれた経験があります。
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渡部昇一先生の本に出会ったのは大学生になってからなので、高校生の時に寸暇を惜しんで本を読む習慣がついたのは志賀大郎先生の影響が相当大きかったのだと思います。
今の私から「本から得たもの」を引くと、ほとんど10%ぐらいのものしか残らないと思うのです。
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そんな大事な「読書の習慣」を身につけさせて下さった志賀大郎先生に、改めて感謝の気持ちを天国に向けて発信したいと思います。
と同時に、私もまた自分よりも若い人たちに、読書の面白さを伝える使命があるのではないかという気が強くしてきました。
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「上求菩提・下化衆生(じょうぐぼだい・げけしゅじょう)」から言えば、私は「上求菩提」の気持ちばかりが強く、例えば若い人たちに教える時間を持つなどという「下化衆生」の気持ちが薄かったことは否めません。
将来、高校生や大学生を相手にした「読書塾」のようなものをやっていくのも一つの手かもしれません(今このブログを書くまで全く頭になかったアイデアです)。
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渡部昇一先生が先輩の大学教授たちを観察し、定年後もバリバリと活躍する人たちと、定年後は消えていく人たちの違いを発見しました。
それは自宅に蔵書があるかないかという事実だったのです。
手元に膨大な蔵書があるかどうかということなのです。
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インターネットが発達した現在、本で調べ物をするということは比較的少なくなっていると思います。
ならば「そんな蔵書は必要ないではないか」ということになります。
が、本を手元に持つことで、本自体がオーラを放ち、その人を取り巻く知的な波動を支えてくれているような気がするのです。
その本たちを処分すると、自分の知的部分も一緒に消えていくのかもしれないと感じるのです。
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