大きな樹木を育てる使命

占いの「九星」でいくと、私は「二黒土星」。
「じこくどせい」と読むようです。
「黒々とした土」のイメージが根本にあります。
黒々とした土からは、豊かな実りが連想されます。
従って「二黒土星」は「母」も意味します。
土を扱う職業、即ち農業や不動産業や建設業が向いているということです。

黒々とした土は、その上に緑なす樹木を繁栄させてこそ、その存在価値があります。
黒い土それ自体には、あまり意味はないのです。
要は「影の力持ち」としての存在。
「オレがオレが」と目立つのではなく、一歩控えて他のものを支えていく存在。
そこにこそ価値があるというわけです。

振り返ってみても私自身、今まで「オレがオレが」と出て行った時はうまくいかず、ほかの人の応援に回ったときは、ひじょうに上手くいったという経験則があります。
「自分はそういう役割を持っていたのだ」といま再認識しました。
自分は目立たず、応援団に徹する。
自分は透明になり、ひとの幸福や繁栄のお手伝いをしていく。
そうか、そういう使命だったのですね。

縁あって出会った人々を、どうやったら幸せに出来るかを考える存在。
まわりの人たちがきらめいてこそ、初めて自分も輝く。
そんな使命も忘れて、今までは自分のことばかり考えていました。
与えることを忘れて求めることばかりを考えているから、幸不運に翻弄(ほんろう)されるのです。
幸運・不運は波のようにせっせと押し寄せてきます。
自分のことばかり、求めることばかり考えていたら、いちいちそれに反応しなければいけない。
縁あって出会った人々や、自分を超えたものに、何を与えていこうか、どうやって貢献していこうかを常に考えているなら、幸不運にとらわれている暇がないのです。

主観的に見ても、客観的に見ても、私はもう既に十分幸せ。
自分のことで「もうこれ以上何を求めることがあろうか」というわけです。
ならば自分以外のものに力を注いでいこうと思うのです。
自分以外といっても「人類のため」とか「他人のため」というのは、どうもピンときません。
やっぱり、まずはまわりの人々から。
家族であったり、社員であったり、縁あって出会った人々であったりするわけです。

自分は透明になって、ほかの人の応援団。
まさに”invigorate”そのものではないですか。
自分が透明になるというのもいいですね。
いろんな修業は「自己の透明化」のためにあるとも言えます。
「自分をなくす」修業は「大いなるもの」への一体感につながってくるとも思います。
「われがわれが」ではけっして「大いなるもの」とは一体化できません。

「自分」に固執するから、自分に向かってくる幸不幸から逃れられないのです。
仏教の悟りは、幸不幸にとらわれない生き方。
自分を透明にして、与えることを使命とする生き方。
何よりもその「透明感」が清々(すがすが)しいではないですか。
ブログを書いていて、また気付きをいただきました。
だからブログはやめられない。