心が追い付くのを待つ

アメリカインデアンの話だったと思います。
長い間歩き続けていた時「ずいぶん歩いたので、体の方が心よりだいぶ先に来てしまった。ここらで心が追いついてくるのを待とう」。
それを読んだ時、案外「休憩」の意味はそこにあるのかもしれないと思ったりもしました。

ハガキを丁寧(ていねい)に書こうとしているのですが、やはり早く書こうとすると丁寧にはならないのです。
しかし一つの字をゆっくり書きすぎると、リズムが崩れ、いい字は書けません。
一つの字や言葉を書いたら「心が追いつくまで」ほんの少し間(ま)を空けてみるのがいいようです。

バケツで雑巾をゆすごうとする時、力任せにゆすいでいると、水がバケツの外に飛びはね、まわりに水がこぼれてしまいます。
せっかく掃除をしているのに、余計な仕事を作ってはムダというもの。
強弱をつけた“ゆすぎ”で、弱の時にバケツの中の水が収まるのを待つ必要があります。
仕事でも「強」ばかりでやっていると、余計な仕事を作っていることがあるのではないでしょうか。

例えば「鍵を開ける」・「ドアを閉める」などの些細(ささい)な行動でも、一つ一つの行動のあとに「心が追いつく」ほんの少しの間(ま)をおくことにより、その行為が完璧に成就する感覚を得ました。
これは言葉では何とも表現しにくいのですが、とても大事なことのような気がしているのです。
一つ一つの行為を完結させないままに次の行為に向かおうとすると、それぞれが絡(から)まってしまってしまうような感覚。
それが予期せぬ方向に向かい、失敗や事故のもとになるとでも申しましょうか。

私の表現能力の限界を感じます。
しかしこの感覚は本物。
日々の生活で応用し、しっかりとその感覚をマスターし、また人にも伝えることが出来るように努力してみます。