本の収納スペース

司馬遼太郎記念館での「本たち」から発せられる圧巻のオーラに感銘を受け「やはり本は捨てずに置いていこう」とあらためて思いました。

 

司馬遼太郎記念館は、地下から3階ぐらいまでの吹き抜けの壁一面に、本がズラリと並べられているだけなのですが、誰もが圧倒されるはずです。

 

その総数は2万冊ということですが、ひょっとしたら私の図書館の冊数と同じぐらいかもしれません。

 

私の図書館は電動式の書棚がズラリと並んでいるのですが、やっぱりオーラ感満載なのです。

 

従って、本からオーラが出ているのは間違いがないようです。

 

司馬遼太郎は趣味らしい趣味も持たず、ひたすら本を読み、そして数々の名作を世に生み出してきました。

 

見事な人生だと思います。

 

自分の6年前のブログを読み返していると「来年あたりで書棚がいっぱいになってしまいそうだ」と書いていました。

 

が、それから6年、まだ大丈夫です。

 

本を整理したり、別の本棚を購入したりして、本を置くための新しい空間が増えたからです。

 

自宅を点検し、今回さらにもう2か所で書棚が置ける場所を「発見」しました。

 

多分これで来年いっぱいは本の収納場所に困らないはずです。

 

ある著者は「本は捨てない。あとのものはすべて捨てる」と決めたと本に書いていました。

 

私もその方針を真似するつもりです。

少しずつ、少しずつ

私は単なる神社好きであって、霊能者でもなんでもないのですが、ごくたまにインスピレーションが降りてくることがあります。

 

きのう「少しずつ、少しずつ」というインスピレーションが降りてきました。

 

仕事や掃除などを「少しずつ、少しずつ」やっていきなさいという霊示だと解釈しています。

 

一気呵成にやるのもいいのですが、そうすると取り掛かるまでにちょっと躊躇(ちゅうちょ)してしまうのです。

 

気持ち上のバリアと言い換えてもいいのですが、そのバリアが邪魔をしてなかなか取りかかれないという現象がよく起きます。

 

そうこうしているうちに、何となく気だるくなってきて、延び延びになったり、ほったらかしになったりするのです。

 

その点「少しずつ、少しずつ」の気持ちであれば、できるところから始めてしまえばいいだけで、仕事を一度に完結する必要がないので気が楽なのです。

 

例えば長期的な大きな仕事でも、まずは始めることが大事で、始めもせずにその前で逡巡(しゅんじゅん)しているほど、人生は長くはないはずです。

 

コインパーキングの集金時に、掃除もしていくのですが、雑草や落ち葉の季節の掃除は大変です。

 

そんな時こそ「少しずつ、少しずつ」の精神が大事で、やり残した仕事はまた次の時にやればそれでいいと思うのです。

 

肝要なのは「少しずつ『やる』」のであって、「少しも『やらない』」とは天地の差があるということです。

 

司馬遼太郎記念館

本をこよなく愛する人のことを、英語で「ビブリオファイル(bibliophile)」と言うのですが、ちょっと難しい言葉のようで、ネイティブでも知らない人がいました。

 

さて、ある愛読家(多数の著書あり)は「本は残す、それ以外は捨てる」と決めているそうです。

 

私の人生もその方針でいいかもしれないと思っています。

 

東大阪市にある司馬遼太郎記念館に行ってきました。

 

司馬遼太郎が住んでいた家の隣に、安藤忠雄氏が設計した建物が建てられ、外は木々の緑、内は本のオーラで、一種のパワースポットのような雰囲気を醸(かも)し出しています。

 

建物の中は、高さ11メートルの壁一面に本が収納されており、誰もが圧倒されるはずです。

 

そこには司馬遼太郎の蔵書のうち、2万冊が並べられているそうです。

 

司馬遼太郎は一つの作品を書き上げるのに、その登場人物に関する「ありとあらゆる」本を集める手法を取っています。

 

例えば『竜馬がゆく』だと、坂本龍馬に関する本がトラック2台分ほど、古本屋からなくなったそうです。

 

司馬遼太郎は、国立大学で唯一数学がなかった大阪外国語大学を受験し、そこに入学しました(大阪外国語大学は今は大阪大学と一緒になっています)。

 

大学で司馬遼太郎と一緒だった人から直接聞いたことがあるのですが、司馬遼太郎は在学中に、大学の図書館にある本の3分の1を読破したのだそうです。

奥に見えるのが司馬遼太郎が生前使っていた書斎。

この道を歩いて記念館へ。

記念館の入り口。もうそこからワクワクします。

この曲線が何とも言えずステキで、ワクワクが続きます。

建物の中は撮影禁止でした。 残念…。

 

 

 

 

正しい食事

お風呂でゆったりと浸かっている時に「飲まない、食べない」というインスピレーションが降りてきました。

 

「飲みすぎない、食べ過ぎない」という意味だと思うのですが、確かに余計なものを飲んだり食べたりして、勝手に調子を悪くしているところがありました。

 

例えば私にはコーヒーアレルギー的なところがあり、たいていはおいしくコーヒーをいただくことができるのですが、たまにコーヒーを飲んだあと気分が悪くなることがあります。

 

そんな時は甘いものを食べるとマシになるのですが、そんなことを繰り返していては体にいいわけがないのです。

 

アルコールだって気持ちよく飲める時もあれば「マズイなあ」と思いながら飲む時だってあるのです。

 

そんなのアルコールを飲んでいる意味がないし、ましてや飲みすぎてしまったりしては元も子もありません。

 

口が欲しているものを飲んだり食べたりするのではなく、体に良い正しい食事をしていきたいと思うのです。

 

若い頃と違い、こういったことを自分で制御できる年齢になってきたのです。

 

まさに「老人力」。

 

老人力のおかげで、体調も頭も過去最高水準をキープしています。

 

しかもまだまだ上昇機運。

 

でも有頂天にならず、淡々と「やるべきこと」をやっていこうと思っています。

 

捨てる経営

『捨てる経営』(小早祥一郎・スタンダーズ・1650円)という本を読み、その内容が腹落ちしました。

 

私も鍵山秀三郎先生から薫陶を受け、自宅でも会社でも「整理・整頓・清掃」を抜かりなくやっているつもりなのですが、プロから見て気がついた点があれば教えてもらおうと、スポットでのコンサルをお願いしました。

 

来ていただいたのは、この本の著者であり、また「株式会社そうじの力」の代表でもある小早祥一郎さんという方です。

 

お話を少ししたあと、さっそく社内を見てもらいました。

 

キャビネットの中も開けての点検。

 

「これは使っているのか?」や「何のためにあるのか?」の質問を受けていると、その質問にちゃんと答えられない正体不明のものがあることがわかってきました。

 

例えば鍵一つとっても、一体どこの鍵かさっぱり分からないのに大事に保管されていたりするのです。

 

今いるスタッフが入社する以前から存在し、1度も使っていないモノもありました。

 

それらをその場で捨てることにし、1時間ほどのチェックでゴミ袋2つ分ぐらいを処分しました。

 

社内の誰のものでもなく、また誰も知らないモノが何年も(ひょっとしたら10年以上も)堂々とオフィスの中に鎮座していたわけです。

 

コンサルに来ていただき、また掃除への意欲が燃えてきたという次第です。

キャッシュフロー

フリーに使えるキャッシュを「毎月いかに増やしていくか」だけに関心があります。

 

逆にそれ以外は力を入れなくてもいいのではないかとさえ思っています。

 

売上を増やそうとすると経費が増えます。

 

広告費や販管費が増えるからです。

 

売上の増大にともないクレームやトラブルも増えます。

 

ある極めて優秀な経営者は、粗利益の高い商品にウェイトを移行させ、売上を減らす方向に事業を進めています。

 

当社の場合、「会社は大きくしなければならない」の呪縛を外したところから、経営状態がよくなっていきました。

 

社員や組織が一番の関心事である会社社長も少なくありません。

 

私も若い頃そうだったのですが、社員が増えたり組織が大きくなったりすることが最大の喜びで、今から思えば「会社ごっこ」に近かったのではないかと思います。

 

「新入社員を何人取れるか?」などは(中小企業にとって)決して経営の最重要項目ではないはずです。

 

優秀な学生はみんな大手企業に就職し、小さな会社にはまず来ないはずで、そこを勘違いして高望みしてしまいます。

重要なのは(売上ではなく)利益だし、もっと言えば利益ではなくキャッシュです。

 

私の場合、手元のキャッシュをこつこつと増やしていかないと、次の収益物件が買えません。

 

銀行からの借り入れで資金を賄(まかな)う方法もありますが、今の私にはそんな度胸はありません。

 

 

漢字の話

漢字は中国大陸から導入され、日本でも大いに活用されてきたのですが、それにとどまらず「ひらがな」やカタカナを発明したところに、日本の先人たちの偉大さを感じます。

 

「色は匂えど散りぬるを」の「いろは歌」など、同じひらがなを一度も重複せずに見事な歌を作っているわけで、この作者の超天才ぶりがわかります。

 

作者は空海でしょうか?

 

漢字は字自体に意味がある象形文字で、アルファベットとは根本的に発想が違います。

 

明治のころに、日本は本来の漢字を少し簡略化しています。

 

台湾や香港では今でも元(もと)の難しい漢字を使っていますが、大陸ではずいぶんと簡略化した漢字を使用しています(ちょっと見ただけでは意味が分からないほど)。

 

私が中国語学習が嫌になった理由の一つに、ヘンテコな漢字と付き合わなければならないといった理由もあります。

 

文字の読めない民衆にも分かりやすくするために、革命後、漢字を簡略化したのですが、過去との文化の断絶といった弊害の方が大きかったのではないかと思います。

 

漢字を使うと異国民の間でも筆談ができ、これは漢字使用の大きなメリットだと思うのです。

 

国語学習では、発音で挫折するケースが少なくないのですが、発音などに時間をかけず、筆談力を磨くべきだという語学のプロもいます。