徳川四天王というのがあり、家康の配下で重要な仕事を受け持ち、特に功績のあった4人の武将のことです。
新東名の設楽原パーキングエリアのすぐ近くに、設楽原長篠の戦いのときの信長本陣という場所があります(私も行きましたが意外に狭い場所でした)。
戦いを説明したパネルもあり、そのとき酒井忠次は二千名ほどの鉄砲隊を連れ、大きく迂回して山を越え、武田軍の山城を背後から奇襲して、これを落としました。
そのルートを見て、現代人ではムリだというのがすぐわかり、昔の人の体力のスゴさに驚きました。
本多忠勝は生涯57回の戦いに出て、すべてカスリ傷ひとつ負わずに帰ってきた猛将です。
槍の名人で、その刃先にとまったトンボが“まっぷたつ”に切れてしまったので、その槍は「トンボ切り」と呼ばれたとのことです。
家康の妻と嫡男(信康)が武田に通じているのではないかという疑念から、酒井忠次は信長に呼ばれ尋問されたのですが、結局、信康は自刃する羽目に陥りました。
家臣ではあるものの、家康でさえ気を使っていた酒井忠次に対し、信康はぞんざいな態度で接していたため、いざという時にかばってもらえなかったという説があります。
井伊直政も勇猛な将でしたが、あまりに厳しく、家臣は毎日みな死を覚悟して仕えていたようです。
これらの功績のある四天王ではありますが、天下取りのあと、家康はあまり厚遇していません。
京に睨みを利かす必要があるので、井伊家は彦根で30万石を与えられましたが、あとはすべて15万石以下の処遇でした。
このへんの家康の意図はちょっとよく分かりません。