「世界で一番幸せ」発見

昨年10月に伊勢神宮式年遷宮のクライマックスとも言うべき「遷御の儀」が執り行われ、それを機に月参りをしていこうと決めました。
で、今回は3回目の月参り。
日帰りはちょっと辛いので、毎回1泊2日の旅程となります。
クルマで行くので道中、本は読めません。

そうでなくても忙しいのだから、毎月ではなく、もう少し回数を減らして、その分仕事や勉強をした方がいいのではないかという気持ちも正直ちょっぴりありました。
これは掃除でも同じで「そんなに掃除ばかりせず仕事をした方がいいのでは?」という疑問は、やり始めて20数年間ないと言えばウソになります。

自分がやろうとすることに「目に見える成果」を求めるのは当然です。
それが目に見えない場合「こんなことをしていていいのだろうか?」と、やはり不安になるのです。

掃除の世界だって鍵山秀三郎先生が先駆者としておられるから「掃除に打ち込んでいても一樹上場企業になれるのだ」とか「掃除をするだけで、あれだけの人格者になれるのだ」とか「あれだけ多くの人が鍵山先生を慕って掃除の会に集まってきている」とかという「目に見える成果」を確認できるわけです。
しかし鍵山先生が掃除を始め出した頃は会社もボロ会社で(社員も含めて)、掃除などしていても、いつ吹っ飛んでもおかしくない状態でした。

目に見える成果など、毎日掃除を続けていても、ほとんど見ることが出来ないことでもありました。
しかしながらブレずに掃除を続けさせた何かがあるはずで、これはもう「信仰」に近いものではないかと思うのです。

西行伊勢神宮に訪れた際に詠んだと言われる「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」という歌があります。
西行は霊的アンテナの感度がいいから、こんな言葉が出てくるわけです。
アンテナが鈍い私は「何事」も何も感じないのに参拝しているのです。
しかし何もなければ2,000年間もの間、人々の信仰をつないで来られなかったはずです。

昨日外宮(げくう)での御垣内参拝(みかきうち・さんぱい)のとき「ひょっとしたら自分は世界で一番幸せではないだろうか」という思いと、それに対する感謝の気持ちがどっと湧いてきました。
世の中には「超・仕事ができる人」というのがいて、そういった人たちにコンプレックスのようなものを持っていたのですが、「幸せ人間」の尺度で比べれば、たぶん私の圧勝です。
そう考えると何だかスッキリしてきました。