生き方を変えなきゃ

大川きょう子さんの書かれた文章を読んで、考えさせられました。
『働き盛りのときは、自分のために精一杯生きても、誰も文句は言いませんが、老後や、病気になったときなどに、自分のためにしか生きなかった人には厳しい反作用が来ます。
そのときになって、徳を積まなかったことを後悔しても遅いのです。
まだ体力があり、誰かのために生きられる時代に、自分以外の人に手を差し伸べる習慣を持たなくてはいけません』

『「仕事に熱中して、一生を送りたい」と思う場合、その評価は、仕事の中身によります。
仕事の中身が、ほんとうに世の中の役に立つようなものであるならば、仕事に殉じてもよいでしょう。
しかし、そうではなく、すべてが自分のためである場合、自分が評価され、自分が収入を得て、自分が楽しく生きるための仕事である場合には、仕事に殉じても、徳がまったくありません。
「自分の幸福を求めるだけでは、徳が足りないのだ」ということを、よく自覚していただきたいのです』

収入も得て、地位も得て、賞賛も浴び、一見この世的に成功しているように見えても、徳はないのだという言葉にハッとしました。
そんな生き方をしていても、あの世に行ったときに、神様の評価はとても低く、自己評価との落差に愕然とするかもしれません。
多くの人は自分のために生きているわけです。
私だってそう。
しかしその生き方は、少なくとも天国に徳を積む生き方にはなっていない。
「ああ楽しかった」で終わっては、何のためにこの世に生まれてきたのか。

以前にも書いたかもしれません。
ある人がこの世で成功し、人々から賞賛を浴び、やがてあの世へ旅立つことになりました。
生前、人一倍努力し、立派な業績を残したので、当然天国です。
天国の案内人が、その人が住む天国の家を案内してくれることになりました。
すばらしい邸宅街を過ぎると、やがてみすぼらしい一軒家が。
そこが住みかだというのです。
「えっ!自分は生前あんなに頑張ってきのに、どうしてこんな家なのでしょう?」
「あなたは確かに努力して成功しました。しかしその成功はすべて賞賛されてきました。
生きている間に賞賛された努力は、すべてそこで消え去ってしまい、天国には徳として貯金されないのです」

ダマイ・ラマの言葉です「自分のやりたいことが、世の中に役に立つように努力しなさい」。
自分のやりたいことと世の中に役に立つこととが、同じ方向を向いている。
これなら自己犠牲でもなく、利己主義でもなく、非常に効率よく努力が消費されていきます。
だが本当に自分のやりたいことが、世の中に役に立っているのか?

「思うようにならない」経験は誰にでもあります。
「思うようにならない」は自分の“欲望”の「思うようにならない」であって、自分の欲望と言う小さな殻を割ってしまえば、案外「思うようになっている」のかもしれません。
自己実現や目標達成に対しては、相当頑張っている。
しかもけっこう目標をクリアしている。
しかしそれだけでは天国に徳を積めないという事実。
ましてや「これだけすごい自分は、人とはちょっと違うのだ」などという気持ちを持ち出すと、天国へ向かっているつもりが地獄に真っ逆さま。
神様は傲慢な人間が一番お嫌いなのです。

たとえ1,000億円の資産を作り上げても、神様の目から見れば、何ていうこともないのです。
大企業の社長になったとしても、その人が社長になったというだけでは何の意味も持ちません。
世のため人のため、人類のため後世のため、何らかの貢献をしてこそ意味が出てくるのではないでしょうか
*。
生き方を変えなきゃ。
入院すると、考え方がちょっと深くなります。