心が追い付くのを待ってみる

30歳代の「率先垂範」から50歳代の「沈思黙考」へと変身しています。
「沈思黙考」というからには、じっくり考える時間が必要で、私の場合、朝風呂がその役割を果たしています。

しかしながら実際に考えようとすると、さまざまな雑念が邪魔をしてきます。
瞑想なども、よほどいい指導者がいないと、けっこう間違った方向へ行ってしまう危険性があるのだろうと推測できます。
今お風呂の中で考えるテーマは大体3つ。
一つは「世界経済の行方」。
もう一つは「わが社の戦略」。
そしてあとはブログのネタ。

今日は休みなので1時間ほども湯船につかっていました。
ブログのネタを考えていたのですが、考えがあちこちに飛び、なかなかまとまりません。
汗はしっかり出てダイエットには良かったのですが、アイデアの方はさっぱり出てきませんでした。
経営上の決断などでも、1時間考えたからといって、あっさりと結論が出るようなものではないようのでしょうね。
うんうんと苦しみながら「ああでもない、こうでもない」と泥臭く、いっぱい時間をムダにしながら絞り出すものなのかもしれません。

以前に、何か行動する時「心が追い付くまで一瞬待ってみる」感覚を掴んだことがあります。
心が追い付くのを待つことによって、一つの行動がキチンと完結します。
完結する前に次の行動に移行しようとするから、糸が絡(から)みつくようにこんがらがってしまうのです。
バケツで雑巾を洗う時、途中で少し動きを緩めてやれば(即ち心が追い付くのを待ってやれば)、水はバケツから飛び散らないのです。

せっかくこの感覚をつかんだのに、普段はよく忘れているのです。
すべての行動にこの原則を応用していけば、かなりいい結果が出そうな気がします。
つまりかなりいい人生になりそうなのです。
一つ一つをていねいな動きにしていけば、運命など簡単に開けていくに違いありません。

一つ一つの行動をていねいにしていくと、たくさんの数をこなすことは難しくなります。
「量は質を向上させる」というのも真実で、完璧でなくてもいいから、どんどん量をこなしていくうちに質の方もレベルが高くなっていくことはよくあります。
この辺の兼ね合いは難しいのですが、要はその状況によってどちらを取るべきなのかを判断すべきなのでしょう。
少なくとも今の私は「ていねいコース」を推し進めていこうと思っています。

モノをたくさん持ちすぎるのも「いい人生」への阻害要因。
たくさん持っていた靴を、使う分だけ残してあとは処分しました。
そのかわり残した靴はピカピカに磨き上げています。
朝出かける時ピカピカの靴を履くと、もうそれだけで心がウキウキすることを発見しました。
自分が使わないものは思い切って処分。
そして「数少ない上等のものをていねいに使っていく」のが、上質な人生へのコツなのだと、これまた大発見しました。