歴史に学ぶ意義

偉人は何かを捨てながら、偉大なことを成し遂げてきた人たちのことです。
ただ捨ててきた中にも、人生に有意な事柄があったかもしれません。
だから仮に偉人になったからといって、自分がパーフェクトであるなどと思ってはいけないというお話。
自分には欠けたものがあるという認識を持っているか否かで、謙虚か傲慢かの分かれ道となります。
ましてや偉人でないとすれば言わずもがな、なのです。

私にも尊敬する人たちが何人かいます。
いずれも自分の仕事の分野でしっかりと業績を残され、また精神性の高い方々です。
私の人生の師は今75歳。
師と同じ年の人と出会ったりした時に、たまたまその人が傲慢で出来の悪かった人だったりしたら「同じ年なのにえらい違いだなあ。長い歳月の間にこんなに差がついてしまうものなのか。自分もうかうかしておられない」と真剣に思ってしまいます。

例え偉人にならないとしても、自分の納得できる生き方をしたいものです。
自分の納得できる生き方とは私の場合、仕事と知的生活。
現役の会社経営者として、仕事に手を抜くことは出来ません。
社員やお客様への責任もあります。
知的生活とは「読書」や「執筆」や「考えること」。

最近特に思うのですが、経済や歴史を動かしている「意志あるエネルギー体」というものがあるはず。
それが何を考えているのかを知りたいと思うのです。
サブプライム問題から始まった一連の世界経済への動向には、ものすごく興味があります。
当然、会社の事業への影響にも手を打たないといけないわけですが、それ以上に学問的にこの問題をしっかり捉えていきたいという気持ちがあります。

1929年の大恐慌と同じなのかどうか。
1929年の時は、その後経済のブロック化が進み、第2次世界大戦へと進んでいきました。
有効需要の創出が、公共投資によるインフラ整備という形に向かえばいいのですが、戦争に向かうことだってあるわけです。
アメリカの主要産業は「農業」と「金融」と「軍事産業」。
金融がこけた今、軍事産業を活発化させるため、戦争を勃発させるといったことだって考えられます。

今回の世界金融危機で、世界主要国の首長や財務担当者が集まったりしているのですが、果たして彼らのうち何人が経済の本質を理解しているのか、やや疑問でもあります。
前回日本のバブル崩壊でも、どういう対策が正解なのかが本当に分かっている人は少なかったと思います。
後からだと分かるわけです(例えば公的資金注入は正しかった)。
歴史に学ぶ意義はそこにあります。