ああ、ドイツ語クラス忘れてた!

きのう午後4時に市役所での「作文コンクール」の会議に出ていました。
で、6時からのドイツ語のクラスをすっかり忘れ、今日になって「あっ、しまった!」。
気になる仕事を終えた時、あとの予定が頭の中からスコンと抜け落ちることは、今までも何回かありました。
以前、結婚式での媒酌人の役をやったあと、岡山の人と会う約束をやっていたのに、完璧に忘れ、すっぽかしたことがあります(大失敗)。

私はドイツ語の宿題を全然やっていかない「落ちこぼれ」なのですが、ドイツ語クラスだけは1回も休まずに行っていたのです。
ツァイトラー先生のクラスを何よりも楽しみにしているのに、まことに残念。
出来は悪いけれど存在感はあるので、クラスがちょっぴり寂しくなったかもしれません。
先生とクラスのみんなに申し訳なく思っています。

でもあのままドイツ語クラスに行っていたら、時間が切迫し、今頃パニックになっているかもしれません。
ドイツ語の時間、それを忘れて“ひたすら”仕事をしておりました。
今日中にアメリカへいく準備もしなければいけません。
午前中にやってしまわなければいけない会社の仕事だってあるのです。

話は一転。
キレる子どもが多くなったと言いますが、いやなに、キレる大人だっていっぱいいるのです。
よく観察すると、やはり基本的に教養が低い。
もう一つ、何らかの劣等感があるのです。
あとひとつ、経済的に追い込まれている人も、よくキレます。
そういった人とは出来るだけ接触しないようにするのは、智恵の一つかもしれません。

仏教でも三毒といって、貪瞋癡(とん・じん・ち)があります。
ちなみに貪(とん)は“むさぶり”。
瞋(じん)は怒り。
癡(ち)は愚かなことです。
私も若い頃は、よく怒っていました。
わりと怒らなくなったのは、44歳での4ヶ月間の入院以降。
そういう意味では、天から与えられた絶妙の入院でした。

怒っても仕方がないのです。
ましてやキレたり、怒鳴ったりするのは愚の骨頂。
事態はちっとも良くなりません(というより当然悪くなる)。
会社でも何かの会でもそうですが、一度キレると、その組織の中では生きていけなくなります。

穏やかな言葉で語るということが、どれほど大事なことか。
静かな話し方は、相手の心の中に浸み込んでいきます。
怒鳴ると、相手の心に入る前にブロックされてしまいます。
だから怒らないというのは、単にモラルの問題ではなく、極めて実務的で有効な手段なのです。
人は年とともに、そういったことに気づき、そして自分のものにしていくのですね。

これだけ神様から与えられているのに、それ以上何を求めて怒っているのか?
滑稽だし、傲慢です。
もっといえば、人間として許されない罪かもしれません。
道元も「愛語よく回天の力あることを学すべしなり」と語っています。
穏やかな言葉や柔らかな言葉は、世の中を変えていく力をも有している。
穏やかな言葉は弱いのではなく、実は物凄く強いのです。
と分かれば、もう「穏やか路線」がいいに決まっています。
やっぱり「鍵山秀三郎先生路線」にたどり着きました。