9月の伊勢から東京クルマ旅 その4

今回、東京で「潜在意識活用」のプライベートレッスンを受けました。

こういうのは地方では、なかなか成り立ちにくい「商売」だと思います。

また最初は地方で活動していても、講師自信が自然に東京へ活動拠点を移してしまうのではないでしょうか。

その方が圧倒的に需要があるし、東京なら地方にいる有力顧客がわざわざ学びに来る可能性が高いわけです。

それが東京が持つパワーなのです。

別の例を挙げると、地方で不動産コンサルタントをやっていたり、やはり地方で資産税専門の税理士で活躍していたりした人が、東京へ出て大成功した例を、いくつも知っています。

専門性を磨けば磨くほど、東京というブランドが背中を後押ししてくれるようです。

さて、潜在意識活用のレッスンに戻ります。

講師は女性講師(ついでに言うと大変な美人)で、少なからざるフィーも支払っていたので、受講を楽しみにしていました。

が、話を進めていくにつれ、中身の薄さが気になりだしました。

潜在意識の活用法については、どうも私の方がレベルが高いようなのです。

霊的センスの面では負けるかもしれませんが、少なくとも本は私の方が数十倍読んでいるようです。

初めて会った経営コンサルタントなどでも、その人の技量や能力や、勉強量の多寡は、ちょっと話せばすぐに分かってしまいますが、潜在意識のコンサルタントも同じこと。

しかしながら話していて「神道の伝道者というのが自分の使命」であることや、「歴史や投資や健康について徹底的に勉強していく」という方向性は間違っていないことが確認できました。

また目標資産額も自分がワクワクする額にまで「下げる」ことにしました。

例えば「目標1,000億円!」なんて言っても、全然ピンと来ないし、イメージできないですよね。

 

 

9月の伊勢から東京クルマ旅 その2

旅の楽しさは「非日常性」。

特に海外などは、現地の人の「日常性」がこちらにとっては「非日常性」となり、見るものすべてが珍しいということになります。

最近の私の国内旅行はすべてクルマ旅となってきたのですが、クルマの中では1人でCDを聴いています。

セミナーや語学や音楽のCDなのですが、CDをジックリ聴くなんてことは普段の生活では全くなく、これもまた私にとっては非日常性の一種です。

今回聴いたセミナーのCDで面白いことを言っていました。

年金だけで老後の生活をしようとすると2,000万円足らないという話が新聞を賑わしていましたが、「老後が不安なら、老後をなくせばいい」という主張です。

つまり「生涯働こう!」ということです。

これは私が普段から言っていることと同じで、働けばお金が入って来るし、お金を使う暇も少なくなります。

ボケ防止にもなるし、健康管理に気をつけなければ“そもそも”老年期に働くこと自体が難しいわけです。

また、老後の「きょういく」と「きょうよう」が大事だと言うのですが、これは「教育」と「教養」ではなく、「今日いくところ」と「今日の用事」がないのが問題ということなのです。

伊勢から東京までは、私の場合、休憩も入れて8時間かかります。

途中2回熟睡し、寝る前と寝たあとの爽快感の違いをいつも感じています。

語学のCDもたまに聞くのですが、たいてい1時間以上の収録がされているので、ちょっと長すぎて飽きてしまうのが難点です。

ドライブの最後の2時間ほどは好きな音楽を存分に聴くことにしました。

「自分はラテン系のミュージックと相性がいい」ことに、最近気がついた次第です。

 

9月の伊勢から東京クルマ旅 その1

伊勢神宮の参拝では通常、外宮を回ってから内宮へ向かうように決められています。

正式参拝だと礼服でなければいけないので、砂利の上を革靴で2時間以上歩くことになり、なかなか大変なのです。

夏の間も礼服を着用するので、礼服が汗でズッシリと重くなります。

初日の午後と、2日目の早朝の2回参拝するので、夏の間、私は黒の礼服と濃紺のスーツの2着を持っていきます。

伊勢から東京に向かう時は、東京で着るブレザーなども持っていくわけで、もうそれだけでクルマ以外の移動は考えられなくなります。

201310月にあった式年遷宮に”たまたま”ご縁で参加させていただき、それ以降(6年間)1回も欠かさず毎月参拝しています。

病気になったり、災害があったり、経済的な余裕がなくなったり、あるいは家族の具合が悪くなったりすれば当然行けないわけで、当たり前のように行けていること自体が奇跡だと思っています。

宿泊するホテルが1年前から予約できるので、1年前から参拝の日が決まっているということになります。

従って当日の天気までは予想がつかず、今まで台風のド真ん中での参拝が2回あります。

1年前から参拝を手帳に記帳しているからこそ、毎回確実に行けるのであって、そうでなければ仕事や用事にかこつけて、ついつい先延ばしにしているに違いありません。

内宮ができて2,000年、外宮ができて1,500年経ちます。

これだけの長い期間、数多くの人たちが参拝してきたわけで、「何もない」わけがないと思うのです。

 

歴史を見逃すな!

自分が生きている間でも、後世、歴史の教科書に載るという出来事がいくつか起きています。

ぼうっとしていて、それらに何の関心もなく過ごしてしまったということもいくつかありました。

小学生や中学生の頃の出来事だと、見過ごしてしまっても仕方がないのかもしれませんが、社会人になってからのことはシッカリ把握しておくべきです。

1989年日本はバブルの絶頂期でした。

私はお金儲けに忙しく、日本や海外で起こる出来事にあまり気を留めている暇がありませんでした。

1989年の64日に天安門事件が起こりました。

また同じ1989119日にベルリンの壁が崩壊しています。

この2つともどう考えても大事件なのに、私はほとんどスルーしていました。

ちなみに日本では1989年に昭和天皇手塚治虫美空ひばりと各界の超一流の人たちが亡くなっています。

消費税もこの年から始まり(最初は3%)、偶然かどうかわかりませんが、それ以降、あれほど輝いていた日本経済はガタガタに崩れていきました。

ということは消費税をやめれば、また日本経済は復活するのではないかと、私などつい考えてしまうのですが…。

1990年にドイツが統一されました。

1991年には湾岸戦争が起こり、また同年ソ連が解体となります。

湾岸戦争(の空爆)が始まったその日、私は東京にいたことをハッキリと覚えています。

その前後から日本経済が底の見えない泥沼に陥っていったのも記憶しています(わが社も苦境に陥りました)。

1993年にEUが成立。

2001年9月11日にニューヨークで航空機テロが起こっています。

 

行くべき方向

95歳までバリバリの現役で頑張る」というのは私のキャッチフレーズのようなものですが、実際に90歳代になった時に、見かけも90才では話になりません。

例え実年齢が95才でも、せめて見かけは70代前半でなければ具合が悪いのです。

その人の見かけと能力は正比例していて、仕事という意味では実年齢はほとんど関係がないと言ってもいいのではないでしょうか。

私の場合、95歳まで約30年あります。

30年間あれば、たいていの夢は実現できてしまえそうです。

ここに来て自分の方向と、そのための「やるべきこと」がハッキリしてきました。

もう迷うことなく実践していくのみです。

読書は私の人生のコアですが、月200冊読破を30年間続けようと思っています(逆に月200冊以上は読まないことに決めました)。

200冊ということは年2,400冊。

そうすると30年間で72千冊と言うことになります。

今の時点で2万冊ほどの蔵書があるので、生涯10万冊ほどの本が読めることになります。

10万冊読んだなら、かなり満足な人生になるのではないでしょうか。

語学も11時間勉強すると決めました(というより、11時間以上勉強しないと決めたのですが)。

これだって30年間続けるならば、簡単に4外国語程度はマスターできるのではないでしょうか。

最近始めた140分の階段トレーニングも、今から30年間続けるつもりです。

これで「老人体」は生涯にわたって防げるはずです。

毎月手残りとなるキャッシュを増やし、これを再投資に向けたいと思います。

キャッシュか株か不動産のいずれかの形で、資産が形成されるわけです。

 

ある休日

休日に自宅や自宅近くのコインパーキングを2時間ほど掃除し、シャワーを浴びてブログを書きました。

ブログはその都度書いているわけではなく、時間のある時に書きためるようにしています。

ブログを2つほど書いたら、猛烈に眠くなり、そのままベッドへ。

昼寝ではありますが3時間ほど熟睡しました。

昼間寝ると夜寝られないという人がいますが、私は全然そんなことはなく、夜もぐっすり寝ることができるので、安心して昼寝しています。

夕方から夜にかけてのルーティンワークはビッシリ決まっており、最近「階段トレーニング」が加わったので、ますます忙しくなっております。

階段の昇り降りで2,000歩ほど歩き、これが40分ほどかかります。

1900からは語学のオンラインレッスン(30分間)で、その前に30分予習をするので、計1時間。

夕食の後、3時間の読書タイムとなります。

時間に余裕がある時は、ゆったりとルーティンワークをこなしていくことができ、そうすると心が落ち着きます。

逆に時間があまりない時は、気ぜわしい動きとなり、心まで乱れてきます。

こうなると何のためのルーティンワークか分からず、何もせず瞑想でもしている方が余程いいわけです。

今まで「もっと、もっと病」に罹(かか)っていたので、いいことならばいくらでもやっていくべきだと思っていました。

が、「過ぎたるは及ばざるがごとし」だし、また一つのことをやり過ぎると他のことがデキなくなってしまいます。

「それ以上やってはいけないという制限を設けると、心が乱れない」ということに最近気がつきました。

これは私にとっては一種の悟りでありました。

階段の昇り降りにしたって「一歩一歩かみしめながらゆっくり動く」と心まで整ってくるのです。