『男は男らしく 女は女らしく』(渡部昇一・ワック出版・905円)

カントがいた頃のプロシアは、「努力」が最高の価値を有しているという雰囲気がありました。
プロシア王自信が何よりも勤勉をすすめ、怠惰を卑しみ、それが時代精神となり、国力が満ちてきました。

このプロシア的勤勉さは産業革命の精神でもあり、アメリカの能率主義にもつながり、現代の日本もその精神的流れの中にあるといってもいいわけです。
これがプロテスタント的労働倫理といわれるものの本質です。

マックス・ウェーバーの『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』の中で説かれている有名な考察があります。
資本主義は本来、ストイックな精神から出てきたものなのです。
プロテスタンティズムがその思想的背景です。

禁欲・勤勉・節制などの徳から、資本主義が生み出されてきたわけで、金儲け主義が資本主義では決してないのです。
ちょっとはずれますが、「経済」というのも「経国斉民(けいこくさいみん)」。
即ち「国をはかり、民をすくう」、どこにも拝金主義とは書かれていないのです。

アダムとイブが禁断の木の実を食べ、楽園を追放され、働かねばならなくなった。
なんとなく働くのは罰なのだというのが、潜在的な意識の中であったわけです。
だから貴族は働かなくていい。
プロテスタンティズムはその意識を破りました。

働くことそのものの中に神の栄光を見出すことができる。
農夫は鍬を振り下ろすその中に、パン屋は粉をこねる働きの中に、鍛冶屋は鋼を打つ行為の中に、神からの祝福を獲得することができる・・・というものです。
労働が奴隷の仕事では決してないのです。

仕事や労働に、そういった宗教的、哲学的裏打ちがあれば、単に生活費を稼ぐためだけではない意識が働きます。
仕事や労働が意義あるものとして輝いてくるわけです。

したがってプロテスタントの国々はものすごく経済的に発展して行ったのです。
今なお、カトリックの地域よりプロテスタントの方が経済的にはより豊かです。
イスラムの地域になると経済的にはもっと下がる感じです)

修道院制を創設したのは、6世紀のイタリアの人、聖ベネディクトです。
「祈り、そして働け」というのが、そのモットー。
「祈り」という霊的・知的活動と、「労働」という肉体的活動を同一レベルの価値においたのは、ベネディクトその人でありました。

しかし労働が決して人間を包みきってしまうものではないという洞察も、厳然としてあったのです。
聖ベネディクトは非常に労働を重んじ、労働の価値の実質上の発見者であったのですが、彼が警戒したのは、労働によって神のことや、ほかのもろもろのことを考える余裕をなくし、
労働によって心を満たしきるという危険でした。

つまり努力だけの生活、あるいは労働だけの生活になること、別の言葉で言えば、労働至上主義になることを、人間性に対する本当の危険だと感じていたようです。

この考え方は、中世の最高の哲学者聖トマス・アクィナスによって、もっと明瞭に述べられています。
それは「最もよきものは恩寵としてくる」、つまり神の賜物として授けられるという考え方です。

一番いいものは「与えられるものとして来る」という、深い洞察がここにあります。
人間の努力で得られるものには、もちろんいいものがあるし、努力は価値のあることでもあるのだけれど、それがすべてではないのだ、それよりもっといいのは神から賜(たまわ)るものであるという「受動性の価値」ということを確実に認識していたのです。

最も根源的な悟りは、人間的努力によって「獲得する」のではなくて、神(あるいは仏)から「授けられる」ものであるとも言えます。

よきものは外(上)から来る。
そしてその恩寵をしみじみと味わう最高の幸せ。
努力によって獲得する価値よりも高いものがここにある。

能動性(即ち、勤勉性)の中にしか価値がないという近代的プロシア主義、近代資本主義、あるいは近代的社会主義が見落とした重要な要素をここに見出すことが出来ます。

それは一言で言って受動性の価値ということです。
受動性の価値の方がむしろ能動性の価値よりも高い面がある、即ち「恩寵は努力に優る」という洞察こそ、この忙しい世の中において、われわれが回復すべき第一のことではないかと思われるのです。