集中力と雑念

将棋の羽生善治さんの言葉に「玲瓏(れいろう)」というのがあります。
語感的には「澄んで冴えわたる。透きとおる」といった感じでしょうか。
将棋で徹底的に考えつめていくと、静かで透きとおった世界が横たわっている。
ちょうど底深く潜った海のようで、深く深く考えていくと、もうそこから戻れないのではないだろうかという境地があり、そこに至ると羽生さんは慌(あわ)てて戻ってくるのだそうです。

そんな境地は「人がものを考えている」のではなく「考えが考えている」状態。
「デンケン(Denken・ドイツ語・考え)がデンケンしている」なんて言います。
十牛図で言うならば「忘牛在人」を超え「人牛倶忘」。
人も牛ももういないのです。
十牛図では「牛」は「悟り」を意味するのですが、その悟りすら姿を消してしまうぐらいの世界。

一日中、雑念が湧いています。
語学のCDを聞いていても雑念ばかりで、まともに聞いていないことが少なくありません。
CDでなくて座禅したとしても同じこと。
雑念ばかり。
これはちょっとイヤになります。
庭の手入れと同じで、放っておけば雑草ばかり。
やっぱり手を入れ、草を抜き、剪定をしなければいけないのです。
きちんと手を入れることにより、豊かな収穫を得られたり、大木が育ったりするわけです。

心の手入れの上手い人のことを「人生の達人」というのだと思います。
「集中」と「解き放ち」の絶妙のコントロール
たぶん「どれぐらい集中したか」が、その人の仕事量を決めるのだと思います。
でも集中ばかりだと、心のゴムは伸びきってしまう。
どうメリハリをつけていくのか。
常に工夫して、年を重ねるごとに「人生の達人」に近づいていかないと、人間としての値打ちがないようにも思うのです。

読書に一日2時間半ぐらいを取っています。
読書の間は、比較的集中しているように思います(ずっと雑念だと読書はできません)。
読書からは智恵や知識を得ますが、ひょっとしたら、この「集中力の確保」も読書の大きなメリットの一つなのかもしれません。
いずれにせよ「集中力」と「雑念」の問題は、もう少し試行錯誤して、いい方法を編み出していきたいと考えています。