「場」が人をつくる

経営者の人たち4人ほどと、3か月後の会食の予定を取ろうとすると、日程が合うのが1日か2日に絞られます。
さらにそこから、味も雰囲気もサービスもいいレストランを予約しようとすると、なおさら大変なのです。
従っていったん決まった日程は最優先で守らなければなりません。

逆に日程を合わせるのが難しかった会食ほど、中身が濃いというのも経験則となっています。
今の生活のように日々の語学学習や読書が充実していると、内容が期待できない会合にはどうしても足が遠のきます。

「パーティーや勉強会には足しげく通い、人脈を確保しなければならない」というのは、長い間私を呪縛してきた考えなのですが、最近になってこの縛りから逃れるようになりました。
尊敬できる友人たちや、心安らぐ「働く仲間たち」と、一流のレストランで”ゆっくり”と話をするスタイルが身についてきました。

私が勉強になると思える「レベルの高い人たち」は、やはりレベルの高い「場」にいることが多く、少々値が張ってもそういった場所に行くべきだと思っています。
本を読んで教養は身に着けることができますが、洗練された品性は良い「場」に出向かなければ、なかなか体得できないような気もします。

良い場との出会いという意味では、海外旅行も有力な手段の一つです。
海外への一人旅は、人を内省的にします。
知っている人もいず、言葉も通じず、慣習も違う外国で1人ポツンといると、好むと好まざるにかかわらず、自分との対話を始めるようになります。
それは反省であったり、内観であったり、将来への展望であったりするわけですが、いずれにせよ日常性を離れた空間が、新しい世界へ自分を誘(いざな)ってくれます。

おまけにヨーロッパや北米だと時差があるため、夜中に目が覚めることも少なくないのです。
私はそんなときは「これ幸い」とばかり本を読みだすのですが、そんなときに限って魂を揺り動かすような本と出合うことが多いのです。
だいたいが内省的になっているところへ「魂の感動」がドカンと来るわけで、もうそれだけで旅の値打ちがあったといっいうものです。

今まで南米やアフリカ大陸には足を延ばしたことはないのですが、治安も悪く、言葉もほとんど通じない所で、自分がどういう心理的状況になっていくのかは、ちょっと想像がつきません。
欧米以上に内省的になっているかもしれないし、あるいは案外逆にハイテンションになっているかもしれません。