平凡な生活に幸せがギッシリ

平凡な生活の中に幸せが凝縮して詰まっているのですね。
自分が特別な人間であることを願い、ある意味、そのために頑張ってきたところもあるわけですが、一日一日の平凡な幸福に気づき感謝していくことこそが真の成功に繋(つな)がっていくことを知りました。

当たり前のことが当たり前に出来るだけでも、こんな幸せなことはないわけです。
私も阪神大震災の経験者ですが、悪夢のような出来事が信じられず、あの平凡な5分前にどうにかして戻れないものだろうかと真剣に思いました。

ヘレンケラーの世界だと音も映像もないわけです。
耳も聞こえ、目も見え、手足も普通に動くだけで「大儲け」なのです。
これを感謝せずに何に感謝するというのでしょう?
日常の不平不満なんて、目が見えないことと比べれば取るに足らないものであるに違いありません。

神さまから与えられた時間を「つまらない思い」で一杯にしていては勿体(もったい)ないのです。
怠惰な生活を過ごしていては申し訳ないのです。
「幸せなほうがいいか、不しあわせがいいか?」を聞いたなら、100人が100人幸せを取るに決まっています。
それなのに心をネガティブな気持ちや怒りで満たしていたり、やるべきことに手を抜いていたりしていては、幸せには成り得ないのです。

「一見自分にとって不都合なこと」も実は意味があることだと気づいたならば、がぜん生き方が輝いてきます。
前向きに将来や未来だけに焦点を合わせていると、現実のデコボコ道はちっとも気にならなくなります。
苦労なんてない方がいいに決まっています。
それなのに苦労を自分で呼び寄せていることが多いのです。

キチンとした生活をし、やるべきことを淡々とやっていくなら、勝手に幸せになってしまいます。
せっかくこの世に生まれてきたのだから幸せになろうではありませんか。
お釈迦様は「中道の中にこそ真理がある」と喝破されました。
両端の極端が真理ではないのです。
平凡に道の真ん中を歩いていく方が早く行けるし、崖に落ちる心配もないのです。