参拝への意味づけ

伊勢神宮に月に1回お参りに行っています。
自宅からクルマで3時間ほど。
ただし途中で休憩を入れたり、パーキングエリアで寝ていたりしていると、時間はもっとかかります。
私の場合は体力的に日帰りはムリなので、1泊2日ということになります。
つまり月に2日間は仕事も勉強も休息も出来ない日があるということです。

本当に月参りを続けていていいのだろうかと、ふと疑問になることがあります。
目に見えて成果があることなら全然問題がないのですが、目に見えないのです。
目に見えないものを信じるからこそ「信仰」なのかもしれません。

西行は「何ごとのおはしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」と詠んだわけですが、明らかに「何かがおられる」ということが分かっているわけです。
その点、悲しいことに、私にはさっぱり分からないのです。

伊勢神宮とは実は125の神社の総称のことで、お参りするところが”いっぱい”あるのです。
2日間では全部はとても回りきれないので、内宮と外宮への参拝が中心になります。
伊勢神宮への移動時間があるので、初日の午後からと次の日の午前中だけが参拝に費やせる時間です。

外宮へ行ってから内宮へ向かうという昔からの慣習があり、私もまず外宮へ参ります。
外宮は「豊受大御神(とようけのおおみかみ)」が中心となってお祭りされているのですが、「正宮(しょうぐう)」のほかに「多賀宮(たかのみや)」や「土宮(つちのみや)」や「風宮(かぜのみや)」などのお社(やしろ)もあるのです。

内宮でも「正宮」のほかに「荒祭宮(あらまつりみや)」や「風日祈宮(かぜひのみやみや)」などがあり、そういったお社(やしろ)を回るだけでもけっこう時間と体力がいるのです。
人が多いと賑(にぎ)わっていいのですが、余計に疲れることは間違いありません。

私にとっての伊勢神宮参拝は「信仰」であって「観光」ではありません。
従ってヘトヘトに疲れるだけでインスピレーションを得ることもなく「こんなことでいいのだろうか?」と初日はちょっとヘコんでいました。
が、翌日の参拝で俄然様相が違ってきたのです。
この時点ではまだ、次の朝に「逆転ホームラン」があるとは全然わかっておりませんでした。
明日に続く…。