日本神道の教え

生涯かけておこなうべき修業は、自分を「無」にするということなのかもしれません。
NHKテレビの「プロフェッショナル仕事の流儀」の茂木健一郎さんいわく「この番組に登場する人たちは、すべて自分が無になっている」。
「仕事が仕事をしている」、「思考が思考している」という状態になってこそ本物。
「自分が、自分が」と言っている間はまだまだなのです。

祈りだって、大きな「我(が)」をかかえていては、間違った方向に行ってしまいます。
自分をなくし虚心に祈ってこそ、その思いが天に通じるというもの。
まずは自分をなくすこと。
自分があるから欲にとらわれ、こんがらがってしまうのです。
自分があるから悩みも苦しさも増幅する。
虚栄や我欲で勝手に傷ついているのです。
自分をなくしてしまえば、さらさらとした水の流れと同じ、何も引っ掛からなくなります。

大きな夢に向かっていこうとしているのに、小さな欲望にこだわっていてはそこで停滞してしまうのです。
余計な執着は捨て去ることです。
「見切り千両」とは執着をきれいさっぱり捨てること。
これは単に相場だけの話ではなく、森羅万象に通じる真理に違いありません。
むろん人生にも。

同じ人生であるならば、多くの仕事量をこなしていきたいものです。
これは我欲ではありません。
大木に向かって伸びていこうとする樹木の本分のようなもの。
天から与えられた使命と言い換えてもいいかもしれません。
それぞれの人間にはそれぞれの役割が与えられています。
仕事を役割として与えられている人は幸いかな。
なぜなら仕事は自己実現のための最高の道だからです。

しかしながら歯をくいしばって仕事をするのでは、自分もまわりも苦しいわけです。
大げさに言えば、時代性に即していません。
飢えを心配しなくてもいい時代や国に生まれてきたわけですから、もっと仕事自体を楽しんでいきたいものです。
与えられたものを素直に喜び、楽しみながら仕事をこなしていく。
日本神道の神髄はその辺にあるのではないかと思っています。

日本神道には「経典」や「聖書」はないのですが、シンプルな生き方の中に、太陽からのぽかぽかとした光が届くような教義ではないかと思うのです。
あえて日本神道の戒律を言うならば「時を守り、場を清め、礼をつくす」ということになるのかもしれません。
まあ難しいことは言わず「楽しみながら淡々とやるべきことをやっていく」のでいいのではないでしょうか。