祈りは過去形で

目に見えないものを信じることが出来る能力は、ものすごく大切。
信仰心と言い換えてもいいかもしれません。
相当昔のテレビ番組に『ああ日本の社長』というのがありました。
宮尾すすむがリポーターで、創業社長に密着して取材していった番組です。
長期間さまざまな社長を観察してきた宮尾すすむ曰く「成功している社長には、一つの共通点があった。それは家に仏壇があることだ」。
「仏壇の心」はいわば目に見えない世界。
これを大切にすることが、この世的にも繁栄をもたらすのだと、それを聞いた時いやに納得した覚えがあります。

結核で4カ月ほど入院していたことがあります。
知的レベルや社会的な肩書など一切考慮されずに、一つの病棟に入るわけです。
ちなみに私の部屋は6人部屋でした。
まともな生活をしていたら、まずは結核などにはならない。
つまり“まとも”でない生活者が多いわけです。
仕事で無理をして過労で結核になった人も“まとも”な生活をしてこなかった部類ですが、これはむしろ少数派。
たとえ結核が治って社会に復帰しても、まともな社会生活は送らないだろうなと思える人の共通点は「本を読まない。信仰心がない」。
逆にこの2つが人間にとっていかに大事なことかを学びました。

精神世界において「祈り」は極めて重要。
しかも有効。
純粋な心でなされた祈りは、必ず聞き届けられるといいます。
ただしこの世に具現化するときは、時期や場所や形がずれて現れることがあるようです。
不思議なことに祈りは過去形でするほうが効果が高いようなのです。
精神世界の本もたくさん読んできたのですが、ほとんど例外なくそのようなのです。
「祈り」の中では、自分の願いがすでに実現されたように祈る。
つまり「○○が叶い、本当にありがとうございました」と過去形で。

祈りを実現する力を仮に「潜在意識」とすると、潜在意識は過去や現在や未来を区分するのが苦手のようなのです。
また他人と自分とを区別するのもあまりできず、人を呪えば、それがそのまま自分に降りかかってきたりするのです。
潜在意識は宇宙の根源とつながっています。
ということは宇宙の根源には、過去や現在や未来も、自分や他人も、ひょっとしたら何の区別もないのかもしれません。
神様は「過去や現在や未来」や「自分や他人」の区別など、何ら頓着されておられないに違いありません。

区別しているのは人間の心。
これが「ほどけた」境地が「悟り」なのかもしれません。
「ほどけた」がやがて「ほとけ」に。
いやシャレを言っているわけではありません。