わが師・わが畏友

ある勉強会で配られた「鍵山秀三郎先生の文章」が、勉強仲間のメーリングで送られてきました。
以下、その文章です。

「至誠を尽くせば必ず明かりが見えてくる。
一所懸命、一心不乱…創業時の私は、ただただ夢中でした。
人が十時間働けば、私は十四時間、十六時間働きました。
二十四時間寝ずに働くこともよくありました。
当時は会社の車に乗り、しばしば遠方まで仕事に出向いていましたが、旅館に泊まる時間のお金もなく、いつも夜を徹して走り続けるか、車中で夜を明かしていました」

「今のようにエアコンのない時代です。
夏は窓を閉めて寝ると蒸し風呂のように暑く、開ければ体中蚊にさされたものです。
冬骨が凍るくらいまで冷え込み、目が覚めて体を起こすとポキンと折れるのではないかと思うくらいでした。
そうした中で、先方が何を望まれているかを必死で探り、それに懸命にお応えして信頼を積み重ねてまいりました。
自分の体力、心を尽くせるだけ尽くして、なんとか毎日を乗り越えていた私には、もっと上手くやってやろうとか、もっと楽な方法はないか、などと考える余地はまったくありませんでした」

「よく”あの手、この手”といいますが、人間には二本しか手はありません。
与えられた条件を生かしてやっていくしかないのです。
そうして至誠を尽くしていけば、必ず見えなかったものが見えてきます。
どっちが東か西かも分らないような真っ暗闇の中でも、いつか薄明かりが見えてくるものなのです。
これは私の体験から確信を持って言えます。
もし何も見えてこないとしたら、まだまだ誠意の尽くし方が足りないと考えるべきです。自分はこんなにやっているのに、などと思っているうちはまだまだ駄目なのです」

「この厳しい競争の時代に、そんな精神主義は通らないと考える人も多いでしょう。
しかし、昔から競争のない時代はありません。
実際に私自身も大変な競争の中を歩んでまいりました。
他社が目にも留めないわずかな隙間に目を向け、それが少しでも広がるように努力を重ね、道を開いてきたのです。
人生も仕事も、一生懸命やっているつもりでも、いつの間にか惰性に陥ってしまいがちです。
人生においては一日たりとも同じ日はありません。
にもかかわらず、自分の生き方や仕事ぶりが三年前と少しも代わり映えがないようであれば、既に惰性の世界に入っている証拠です」

「惰性を打ち切る一番の方法は変化を求め続けることです。
それが最もよくわかるのが掃除です。
掃除をすると、それまで汚れていたところがきれいになり、すぐに変化が確認できます。
変化が確認できると、次になすべきことが見えてくるのです。
変化を求め、次々と新しい目標を見出して、その目標に向かって誠実に努力を続けていくと、ある時、他の人が及びも付かない領域に自分が入っていることに気付くことになります。
そこはもう非凡な世界なのです。
このように、誰もが非凡な世界に入ることが出来るのです」

「自分の人生が素晴らしいものかどうかは、終えてみなければわかりません。
しかし、一日一日素晴らしい生き方を積み重ねていくことは出来ます。
誰もが簡単に歩めるような安易な道ではなく、人がなかなか歩まないような道を選んでいただきたいと思います。
たとえ辛く、厳しくとも、あえてそういう非凡な道を歩んでいく中で、自分が生きる道を見出していただきたいと願っています」

今の鍵山秀三郎先生を見ていると、もう「自分のため」という領域を完全に超えておられます。
例えて言えば使命を帯びた宣教師のような心境。
講演の時に「そこまで苦労すると割に合わないのではないか」といった趣旨の質問に対しての鍵山先生のお答えです。
「自分のためにやるのだったら、まったく割に合いません。
他人のためにやるから頑張れるのです」

ここからはわが畏友Tさんからのメールです。
「私たちは鍵山先生ほどには絶対に頑張れないわけですから、少なくとも不平・不満を考えず、常に感謝の気持ちで、できる範囲内で頑張るべきですね。
他人のために頑張っているならともかく、自社のために頑張っている間は、天が予め与えてくれた枠以上の売上げは上がらないものだと観念するようになりました。
天が『あまり欲張ってはイカン』と言っているようにも感じます」
で、私の結論。
「自分の能力以上の努力をしようとするから倒れる。
ましてや努力以上の結果を求めるのはストレスのもと。
自分の能力にも努力にも感謝して、足るを知る。
結果は天にお任せして、自分がやれることを淡々とこなしていく。
そしてその過程を思いっきり楽しむ」
まあこんなところでしょうか。