神様の価値観

長期休暇を十分に楽しんでいます。
が、ちょこちょこと引越しの荷物の整理をしたり、会社でデスクワークをしたり、家で本を読んだりしている間に、一日があっという間に過ぎ去ってしまいます。
これで普段の仕事が入ってきたら、いったいどんな生活になるのか、ちょっと怖いぐらい。

時間が飛ぶように過ぎ去るのは、もう致し方ありません。
時間の早さを嘆いても詮無きこと。
頑張っている割に、やりたいことの半分も出来ていないなんていうのも、これもまた仕方がないことなのです。
だから自分をそう責めないで。

年がいくほど、年々一日が早くなっていくと言います。
これは心理的に早くなっているのではなく、絶対時間が実際に短くなっているからだと思うのです(証明できないのが、とても残念です)。
時間が矢のように過ぎてしまうのは、自分の努力ではどうしようもありません。
どうしようもないことに執着するほど愚かなことはありません。
「時間の速さはコントロールできない」は、「人間は必ず死ぬ」と同じくらいの真理なのです。
だから自分たちに出来ることは「いかに一刻一刻を楽しんでいくか」と「いかに悔いのない時間の使い方をしていくか」しかないと思うのです。

「淡々とした努力」は続けていくべきですが、結果については、もうこれは神様にお任せしてしまっていいのではないでしょうか。
すばらしい結果を与えていただいたら、素直に感謝。
期待していた結果でなくても、それはそれで何か意味があるのだと思います。
だから自分たちが出来ることはただ一つ「楽しみながらの淡々とした努力」。
これは自分たちがコントロールできること。
それを超えたところは神様の領域なのだから、とやかく言うのは“おこがましい”というもの。

楽しむ工夫が欠けていたり、やる気の継続を怠ったりすることはチェック。
でも「結果を出さなければ」と焦る必要はないわけです。
2時間で10キロ歩ける人と、5キロしか歩けない人とでは倍の差。
4時間になると20キロと10キロで、もっと大きな差。
400時間だと200キロと100キロで、もう追いつけないような差。
だけど与えられた時間が永久だったらどうでしょうか?

急に距離の差なんて意味がなくなってしまいます。
淡々と歩き続けさえいれば、足の遅い方の人だって、永久の時間なら無限に歩いていけるわけです。
だから最も大切なことは、距離の大きさではなく、歩いている人の喜びの大きさ。
有限の時間であれば、成果である歩いた距離が一番の課題。
でも無限の時間の中では、結果ではなく過程が大事。
有限は人間社会での話。
無限は神様の世界。
無限に焦点を当てると、価値観が根本的に異なってくるのです。