中国語の断捨離

コインパーキングはいくつか実際に運営してきているので、どういった場所に出すと、どれぐらいの売上が上がるのかが大体わかるようになりました。

 

が、新規で始めようとするコインランドリーについては、まったく見当がつきません。

 

そこでフランチャイズ本部にお願いして、既存のコインランドリーの繁盛店を教えてもらいました。

 

ただし関西のコインランドリーはあまりなく、視察に行こうとすると、ほとんどが1泊以上しなければならない場所ばかりです。

 

スケジュールの合間を見ながら、ポツポツ回って行こうと思っています。

 

それとは別に、神社の本を今年中に出したいと思っています。

 

すでに半分以上の原稿を書いたのですが、あとの半分を埋めるために、神社巡りもしていかなければなりません。

 

そうするとコインランドリー巡りと神社巡りとで、今年のスケジュールがパンパンに埋まってきました。

 

私は「やるべきこと」を「多読」と「語学」と「投資」の3つに絞ったのですが、コインランドリー巡りと神社巡りは、そのうちの「投資」に分類されます。

 

これらは仕事なので最優先になるのですが、時間が切迫してくると一番犠牲になるのが「語学」なのです。

 

いま英語とドイツ語とフランス語と中国語を勉強しているのですが、このうち中国語を断捨離することにしました。

 

中国語のいい先生も見つけていたので、苦渋の決断でした。

 

以前から、マナーの悪い中国人団体客や、身勝手な中国共産党のことを思い浮かべると、途端に学習意欲が減退する状況だったので、学習中断は時間の問題だったかもしれません。

 

で、どうなったかというと、気持ち的には非常にスッキリし、次へのモチベーションにつながっています。

 

勉強でも時には「損切り」というのが必要なのですね。

 

妄想と勘違い

人生に勝利するためには、真面目に努力していくのは当然のことで、勤勉でない人が成功を収める可能性は限りなくゼロに近いはずです。

 

が、どうも勤勉だけではなく「妄想と勘違い」というのも極めて重要な要素であることが最近わかってきました。

 

夢というよりも、ほとんど妄想といってもいいようなものを、成功者は持っていることが多いのです。

 

暴走族ならぬ「妄想族」です。

 

今の努力の積み重ねの末に成功が待っているというよりも、「なりたい自分」を妄想し、その妄想先から今を眺めてみるのも悪くないのかもしれません。

 

「未来の一番いい自分を思い出そう!」と言った人がいるのですが、未来に夢は既に実現していると勘違いすればいいのです。

 

また、案外それは勘違いではないかもしれません。

 

今の自分が勘違いすると、潜在意識も「ああそうだった」と勘違いし、勝手に未来から成功した姿を引き出してくれるというわけです。

 

夢を過去形で言い切ってみるというのは、精神世界での重要なポイントでもあるのですが、夢が既に実現してしまっている自分をアッサリと受け入れる素直さも大事だと思うのです。

 

勘違いはウソではなく、実現してしまっていたらウソでも何でもありません。

 

パラレルワールドという考え方があり、最高にうまくいっている人生から最低の人生まで、いくつもの人生が同時並行して進んでいるというのです。

 

もしそうなら、遠慮なく最高の人生を選べばいいわけです。

 

自分の人生の脚本家は、まさに自分であって、自分の好きなように描けばいいだけだと思うのです。

 

経営と宗教心

ずいぶん昔になりますが、テレビで「日本の社長」という番組がありました。

 

当時、私は水曜日が定休日で、毎週その番組を見ることができました。

 

宮尾すすむというタレントが、日本各地の成功した社長を取材していくというもので、なかなか面白かったのです。

 

宮尾すすむ氏いわく「長く成功を続けている社長に共通していることがあった。それは自宅に仏壇か神棚があるということ」とのことでした。

 

私もサラリーマン時代はあまり気にしなかったのですが、会社経営をしだすようになってからは「自分を超えるもの」の存在を強く意識するようになりました。

 

会社経営などをしていると、災難や「まさか」が不定期にやってくるのです。

 

それらは自分ではコントロール不能でした。

 

また自分の才能や努力を超える「運」のようなものがあり、それらはどう考えても神様の分野であることだけはハッキリしていました。

 

かといって、それがすぐに神社参拝に結びついたわけでもなく、日本の神々とのご縁はずっと後のことです。

 

神縁は自分でゲットできるものではなく「与えられるもの」だということもよくわかりました。

 

大向こうを唸らせる、勢いのある経営者をたまに見かけますが、その人がいつまでも大成功を続けられるかどうかはまた別問題です。

 

その人が松下幸之助本田宗一郎のようなホンモノの経営者になるか否かの分岐点は、宗教心を持っているかどうかではないかと私には感じられるのです。

 

 

過程を存分に楽しむ

購入してはみたものの、気が重くて読む気にならないという本は結構あります。

 

「勉強しなければ」といった義務感で買った本などは、たいていそうです。

 

が、「本を読むからには理解できないといけない」という思い込みを捨てたところ、どんどん読書が進むようになりました。

 

税務や法律などの小難しい本は「わかっても、わからなくても」ページを捲(めく)っていくことにしました。

 

勉強する場所も大事で、家だと難しい本を手に取ること自体があり得ず、そういった本はすべて会社に移動させ、会社で「仕事中に」読むことにしたのです。

 

ほかのスタッフが働いているのに、自分は本を読んでいるわけで、その罪悪感と緊張感で、ものすごく集中できるのです。

 

たまに一種のゾーン状態に入り込むこともあります。

 

例えば「不動産の税金」などでも、そんなにたくさんの税の種類があるわけでもなく、同じような内容が何度も出てきます。

 

すると、興味のあることは自然に頭に入ってくるのです。

 

わからないところは「いずれわかる時が来る」のひと言で、あっさり読み飛ばしてしまいます。

 

税金や法律の本はともかく、日本古代史などは自分が好きな分野です。

 

それでも「わからないことだらけ」でメゲるときがあるのです。

 

しかし「いずれわかる」の呪文を唱えれば、ストレスなしに読み飛ばせて行けます。

 

語学でも、ときたま「わからないことだらけ」に学習意欲が減退することがあります。

 

しかし1日1時間の語学時間を「いかに楽しむか」だけを考えて継続していきたいと思うのです。

 

「継続は力なり」が結果で、「継続を楽しむ」がその過程です。 

 

 

 

古事記の話 その2

スサノオ命がヤマタノオロチを退治した時に、尻尾から出てきたのが天叢雲(あめのむらくものつるぎ)で、これが後に三種の神器の剣となるわけです。

 

しかしながら、むしろスサノオ命がヤマタノオロチを打ち倒したときの剣が、三種の神器になってもいいような気がしますが、この辺の事情はよくわかりません。

 

日本武尊ヤマトタケル命)が熊襲征伐に向かう時に、叔母である倭姫(ヤマトヒメ)から、この天叢雲剣を授かりました。

 

戦いの時にこの剣で草を薙ぎ、ピンチを脱したことから、別名「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」とも呼ばれています。

 

草薙剣を妻のミヤギヒメに託したあと、ヤマトタケル命は伊吹山で亡くなってしまいます。

 

尾張出身のミヤギヒメは、その剣を熱田神宮に奉納し、それが今なお三種の神器の一つとして残っています。

 

熱田神宮のご祭神は草薙剣ですが、熱田大神とも呼ばれています。

 

唐が強い勢力を持ち、下手すると日本に攻めてくる可能性がありました。

 

実際、白村江の戦いで「日本・百済連合軍」は「唐・新羅連合軍」に完敗しました。

 

唐の勢いを削ぐため、熱田大神楊貴妃として生まれ変わり、玄宗につきそい「傾国の美女」として、その使命を果たしたという話があります。

 

奇想天外な話ですが、熱田神宮に公式な言い伝えとして残っているのです。

 

 

 

 

古事記の話 その1

イザナギ命が黄泉の国から必死で逃げ帰り、今の宮崎県で池に入って禊(みそぎ)をします(この池は今も残っています)。

 

その時に、左目から天照大神が生まれ、右目からツクヨミ命が、また鼻からスサノオ命が誕生します。

 

この三柱は「三貴神」と呼ばれ、中でも天照大神は日本最高の神さまと崇められています。

 

天照大神は決してイザナギ命の最初の子ではなく、数十番目の子供なのに、どうして一番エライ神さまなのかはよくわかりません。

 

天照大神は、イザナギ命と南九州の地元の女性との間の子供であって(畏れながら)イザナミ命の娘ではないように感じます。

 

ツクヨミ命という神さまも、古事記などに記述があるのはこの場面だけで、あとは一切出てきません。

 

ツクヨミ命は男の神様だと思われていますが、西洋の月の女神アルテミスと同じ霊的生命体だという説もあり、そうすると女神ということになります。

 

いずれにせよ天照大神(太陽の神さま)とは仲が良くなく、それが証拠に太陽と月とは同じ時間帯に出ないのです。

 

スサノオ命という方も神様とは思えない乱暴者だったのですが、ヤマタノオロチを退治して一躍神話時代の英雄になりました。

 

 

貴族から武士へ

日本史を見ていくうえで一番のポイントは、各時代にどういった階層の人たちが世の中を動かしていたかを知ることです。

 

国がまとまり落ち着いてくると、貴族の世になります。

 

和歌といった文化が広がり、また深まりました。

 

万葉集などには名歌がたくさん集められていますが、千年以上たった今でも、その瑞々しさに感動することがあります。

 

身分制度はあっても「歌(和歌)の前では平等」という原則が貫かれており、天皇から遊女まで、優れた歌であれば何の偏見も持たずに取り入れられています。

 

中には「詠み人知らず」などと言うのもあったりして、おおらかなのです。

 

「イイクニつくろう1192年」の鎌倉幕府からは完全に武士の時代になりました。

 

鎌倉、室町、徳川と幕府は違っても、武士階級が統治しており、貴族は「およびでない」状態でした。

 

700年ほど続いたサムライの時代でしたが、その間に武士道といった(高度な)精神的文化が生み出されました。

 

武士道はあっても、貴族道なんて聞いたことがありません。

 

明治維新は武士階級によって起こされたはずなのに、武士階級を没落させる方向で進みました。

 

これがなぜか全然わからなかったのですが、キーワードは「下級武士」で、下級武士はむしろ虐げられていたのです。

 

西郷隆盛大久保利通坂本龍馬伊藤博文もすべて下級武士の出身です。