「神たび」に集中

海外旅行に行けないことが、今の私にとっては大きなプラスとなっています。

 

国内のクルマ旅に集中できるからです。

 

私は単に観光といった旅には興味がなく、史跡のような知的好奇心を満たすところや、神社のようなスピリチュアルな場所に心ひかれます。

 

神社の本を出版したいという気持ちが強くなり、今後の(仕事での出張以外の)旅は神社めぐりに絞りたいと思っています。

 

神社は日本全国に8万社あるそうで、それを全部回るのは不可能です。

 

有名な神社や、スピリチュアル的に「濃い」神社を、あらかじめ本やネットでリストアップして回っていきたいと考えています。

 

ひと口に神社と言っても、ご祭神によって、さまざまな系統があります。

 

大きく分けると伊勢系と出雲系。

 

代表的な神さまは、伊勢系は天照大神(アマテラスおおみかみ)、出雲系は大国主命オオクニヌシのミコト)です。

 

前にも書いたのですが実際に神社を訪れると、伊勢系は精妙な弦楽器の波長が、また出雲系は打楽器の力強い波動が伝わってくる感じがします。

 

私は神社で願い事はほとんどしないのですが、神さまによって願い事を叶える得意技があるのです。

 

神さまとの相性というのもあり、感動で胸がいっぱいになる神社もあれば、(畏れながら)ピンと来ない神社もありました。

 

自分が好きな神さまと、より深く御縁を結んでいくのがいいのかもしれません。

神社参拝効果

ここ7,8年、仕事や勉強が充実し、また経営や生活が安定し、豊かになっているという実感がありました。

 

「どうしてだろう?」と考えた時、伊勢神宮へ毎月参拝に行きだしてからだと、ハッと気がつきました。

 

ふつう、よほど神社に興味がある人でない限り、そんなに頻繁に参拝に行かないはずです。

 

会社経営などをしていると、仕事が忙しいし、神社参拝に出かけている暇があるなら、そのぶん仕事をした方がいいと思っても不思議ではありません。

 

が、出光佐三松下幸之助など、あれだけ事業の実績を上げた人でも、やっぱり神社参拝を欠かしていないのです。

 

これをどう考えるかであります。

 

今は神社にハマっている私だって、10年前だと参拝にほとんど訪れたことはありません。

 

60歳の時に伊勢神宮式年遷宮に(なぜかわからないけれど)参加する機会があり、そこから徐々にのめり込んでいったというわけです。

 

式年遷宮は20年に1度行われるので、私が40歳の時や、20歳の時にもあったはずですが、まったくスルーしており、何の記憶もありません。

 

それらの時から神社に今ほど思い入れがあったなら、また違った経営や人生になっていたのではないかと思います。

 

が、今は反省を重ね、しっかり軌道修正も行えているので、それはそれで満足しています。

世のため、人のため、自分のため

何度もブログに書いたのですが、長い長い模索期間を経て、やっと当社の経営方針が決まりました。

 

それが「お金を貯めて、収益物件を一つ一つ増やしていく」というものです。

 

東京で何人ものコンサルタントと会い、スポットで相談をしてきたのですが、やっと「腹落ち」する方針が見つかったというわけです。

 

しかし、ただ単に収益物件を増やしていくだけでは大義がなく、やはり「社会に有意義なものに投資する」という視点が必要になってくると思います。

 

その投資によって、世の中が便利になり、働きやすく、暮らしやすくなるというのが一番です。

 

「世のため、人のため、自分のため」くらいがちょうどいいのではないでしょうか。

 

コインパーキングやコインランドリーは利用者にとって「あってよかった」と思ってもらえるものだし、賃貸住宅や店舗も(本音の所で)入居者やテナントの幸福や繁栄を願って運営しています。

 

私は神道のファンなので、日本の神々に喜んでもらえるような仕事をしていきたいと考えています。

 

神道の特徴は「この世に対してポジティブ」で、日本の神々とご縁を深めると、経済的に豊かになり、家族が調和し、職場の雰囲気が良くなります。

 

神道は大らかです。

 

「清貧」や「孤高」ではなく、ほんわかした空気に包まれ、それでいて自分が持つ力が最高に発揮され、すばらしいパフォーマンスが生まれます。

ブログを書き忘れそうになる恐ろしさ

12年間もブログを毎日書き続けているのに、ごくたまに更新するのを忘れそうになることがあるのです。

 

だいたいが午前中の早い時間帯に気がついて事なきを得るのですが、こういうのを「うっかり」と言っていいのかどうかわかりませんが、いずれにせよ私にとっては恐ろしいことであります。

 

ブログを本にしてくれるサービスがあり、今までのすべてのブログを本にしました(ついでに言うと、本になるまでの過程が、すべてネットで完結してしまえるのです)。

 

世界でたった1冊だけの本であり、読者もたった1人(私)。

 

もうすぐ72冊目ができあがる予定です。

 

ブログ書きのデメリットは時間が取られること。

 

メリットは(今のところ)それを上回っており、実生活でメゲるようなことがあっても、ブログを書くことによって、それを客観的に見ることができます。

 

具合の悪いことがっても「あっ、またブログのネタができた」ぐらいに思っていると、そう深刻にならずに飄々(ひょうひょう)としておられるのです。

 

これは講演をよくする人も同じようなことを言っていました。

 

「しめしめ、これは講演のネタに使えるぞ」というわけです。

 

私はブログで自分の決意表明をよくするのですが、書いた手前、自分でも頑張ろうと思うし、書いた時点で潜在意識にもインプットされるのか、実現度がかなり高いような気がしています。

外国語を学ぶなら

よく英語関連で「ネイティブならこう言う」的な本が出版されます。

 

しかし私にはこれが「ネイティブの奢(おご)り」のように思えるのです。

 

特にビジネスでは英語が世界の共通語になっていますが、その英語はアメリカ人やイギリス人がしゃべるだけのものではないはずです。

 

ましてやスラングだらけの英語など「まとも」なビジネスパーソンが話すものではなく、逆にそういった英語を使うだけで相手にされないような気がします。

 

日本語だって、誰もがビジネス日本語を話せるわけではなく、きれいで正しい日本語は教養と人格が備わった一流の人しか使えないと言っても過言ではありません。

 

外国人が外国語を学ぶ場合、まずは文法が正しく、発音もキレイであるに越したことはありません。

 

私は英語、ドイツ語、フランス語、中国語の4カ国語を学んでいますが、各国語とも標準語を学習していこうと思っています。

 

すべてのドイツ人が標準ドイツ語を話すわけではなく、フランス語だって同じで、中国語に至っては他の地域の中国語はお互いに全く通じないのです。

 

私は英語を学ぶのにニュージーランドやオーストラリアへ行きたいとは思いません。

 

各国で標準語が話されている地域があり、中国語ならハルビン長春

 

ドイツ語ならハノーファー

 

イタリア語ならフィレンツェ

 

英語なら(これは地域ではないのですが)「キングズ・イングリッシュ」といきたいものです。

自分も働く、不動産も働く

「1日も休まず働く」というのが、どれほど威力のあることかがわかってきました。

 

これは別に毎日会社に出勤するという意味ではなく、また「働く」のなかには仕事だけでなく勉強も入っています。

 

結局のところ「働く」というのは究極の自己実現ではないでしょうか。

 

ふつう仕事をすれば経済的に豊かになっていきます。

 

また勉強すれば自分が成長していきます。

 

これがやっぱり面白いのです。

 

私の場合、月57,000円の年金だけでは食べてはいけず(でも年金には感謝しています)、なにがしかのお金を稼いでいかなければなりません。

 

今までコツコツと収益不動産を増やしてきたからこそ、多少はユトリのある生活ができているわけで、もしそれがなければ現在や将来の目途が全く立たず、想像しただけでゾッとします。

 

アリとキリギリスではないけれど、若い時から蓄財し、不労所得の元をつくっていかなければ老後が苦しいのです。

 

バブルの頃のウソップ物語では「キリギリスは遊んでばかりいましたが、結局冬は来ませんでした」とか「アリは働いてばかりで過労死しました」とかいった話になっていました。

 

が、バブルのあとすぐに津波のようなバブル崩壊がありました。

 

自分が懸命に働くだけでなく、不動産にも働いてもらう仕組み作りをすべきだと思うのです。

逆タイムマシン経営

かつてはアメリカで流行っていることが、5年ほど遅れて日本でもブームになるといった現象がよく見られました。

 

私が知っている人でも、アメリカへの視察旅行に参加し、そこで(当時日本になかった)ホームセンターを見て、日本に帰ってホームセンターを立ち上げ、大成功した人がいます。

 

不動産業ひとつとっても、仲介業のフランチャイズREIT(リート)など、アメリカから取り入れたシステムはいくつもあります。

 

アメリカを定点観測して新しい動きを見つけ、それを日本に取り入れる経営手法を「タイムマシン経営」と呼ぶのだそうです。

 

が、最近「逆タイムマシン経営」という言葉が聞かれるようになりました。

 

少し古い雑誌や本を読むと、その時代で何が問題や課題になっていたかがよくわかります。

 

しかしながら今から振り返ると、その視点や対応のほとんどがピント外れであったことを知ることができるのです。

 

例えば今は人口減問題が切実な問題として捉(とら)えられていますが、ひと昔前だと「いかに人口増を防ぐか」が重要な課題だったのです。

 

住宅難や通勤ラッシュや受験地獄などはすべて人口増が引き起こした問題で、今70代の団塊の世代などは、人口が多すぎて学生運動などで荒れに荒れていました。

 

前提も間違い、論理も間違い、予想も間違っているのに、勝手に大問題にしていることも数多くあったことが、過去を振り返るとよくわかります。

 

コロナ問題など、どうもその一つではないかという気がするのですが、さてどうなのでしょう?