語学学習

フランス語は「H」を発音しません。

 

つまり「ハヒフヘホ」の音がないのです。

 

ちなみにフランス語のHはアッシュと発音します。

 

私の友人で「はやし ひろあき」という人がおり、ある時パリの空港で呼び出しがあったのですが「アヤシ エロアキ」と何度も呼ばれたそうです。

 

「怪しいエロあき」なんて、まさに自分そのものではないかと、苦笑しながら納得したとのことでありました。

 

フランス語では単語の最後に来る子音も発音しないので、「ハーブ」という楽器は単に「アー」となってしまいます。

 

フランス人女性にフランス語を習っているのですが「始めましょう」は「あじめましょう」と言っています。

 

しかしそれで通じるわけで、何の問題も感じないし、それどころか訛りは一種の個性だという気がします。

 

私は外国語の先生から「発音だけはうまい」とよくほめられます。

 

ある中国人留学生から「出口さんは福建の人たちよりも発音が上手」などと“わけのわからん”誉められ方をされたこともあります。

 

私のように語学の才能があるわけでもなく、必要に迫られて勉強しているわけでもない人間は、学習へのモチベーションをどう確保するかが問われます。

 

その答えとして、勉強そのものを楽しむという姿勢が大事なのではないかと思うのです。

 

「目標だけではなく、その過程を存分に楽しむ」ということを自分の指針にしているのですが、語学だって例外ではありません。

 

「自分の頭の悪さに落ち込まない」というのも座右の銘にしており、楽しみながら一生継続すれば、語学の神様もちょっとは認めてくださるのではないかと思うのです。

 

 

 

シンプルライフへの環境づくり

半年ぐらいかけ、大型書棚の移動や設置を行いました。

 

それに伴って、10数年間スペースを占有していた不用品を処分し、実にスッキリした空間が生まれました。

 

私の書斎は知的生産の場でもあるのですが、何度も場を活かす工夫をしている間に、段々とパワースポット化してきました。

 

昨年中に本を置くスペースがなくなる懸念があったのですが、今回の大整理で、もう1年半ほどは心配しなくてすむかもしれません。

 

企業経営でも「選択と集中」は非常に大事ですが、個人の生活でも「やるべきこと」と「どちらでもいいこと」と「やらないこと」を最初に決めて、「やるべきこと」に集中していくべきだと思うのです。

 

またそれに合わせて、まわりの環境も整えていくと「やる気」がガゼン増してきます。

 

私は転生輪廻を信じていますが、「今世(こんぜ)はこれでいこう!」と決めてしまうと、迷いがなくて気が楽です。

 

やり残したことは、また来世に頑張ればいいんじゃないでしょうか。

 

「どちらでもいいこと」に心煩わすのも時間がモッタイないのです。

 

生活も仕事もシンプルライフが一番です。

 

今回の書棚の移動は、シンプルライフへの移動でもあります。

*不用品を捨て、そこに書棚を移動させると、場が生き返りました。

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*右は新しい書棚です。

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*本を整理し、ここにも本を置くスペースを確保しました。

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*本ではなく、衣類を置きました。

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*これも新しい書棚です。

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*まだ未読の本ばかりを置いています。

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*パワースポットの根源の、書斎の神棚です。

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*鹽竈(しおがま)神社から頂いた絵も書斎に飾っています。左うしろからシオツチオジの神、タケミカヅチの神、フツヌシの神。

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「ヨコ勉」で勝つ

「これを勉強しなければ」などという義務感で買った本は、たいてい読まずに積んだままになる運命のようです。

 

が、その運命にあらがうが如く「ヨコ勉」を開発しました。

 

「開発」というほど大袈裟なものではないのですが、心理的ハードルが高くて読む気にならない本を、とにかく「わかっても分らなくても」ページを捲(めく)っていくという読書法です。

 

ただし1冊だけで読み終わらずに、そのテーマの本はすべて読破していきます。

 

ヨコ勉の成果の一つを言うと、中古物件を購入した時に、減価償却期間がどうなるかが全然分からなかったのに「ヨコ勉」しているうちに段々と分かってきたというのがあります。

 

若い頃、同じ不動産業界で「すごいなあ」と感嘆した人がいるのですが、その人は「こと不動産に関する限り、弁護士に負けないぐらい法律の勉強をし、一級建築士以上の建築知識を持ち、税理士を凌駕する税務能力を持つ」という方でした。

 

今その人がどうなっているかと言うと、なんと一部上場企業の(創業者の)会長であります。

 

私は長いこと不動産業界にドップリと浸かっていますが、まわりを見渡しても法律や建築や税務に通暁している人なんてまずいません。

 

逆にいないからこそ、ちょっと頑張ればすぐに勝てるわけです。

 

商社から不動産オーナー業に転入して来た人が、ある不動産の勉強会で「不動産業界はアホばかり。負ける気がしない」と本音をポロリと言ったのですが、まわりの不動産業の人たちは誰も反論せず、むしろ納得したそうです。

 

私も「ヨコ勉」という武器を持ったからには、遅まきながら本気で勉強しようと思っています。

 

なにせ「95歳までバリバリの現役」を目指しているので、時間はたっぷりとあるのです。

 

テレビ禍

自分が判断つかない問題は、できるだけ多くの人たちの意見を聞くようにしています(私の場合は本を読むのですが)。

 

たとえば貿易・関税問題のTPPなどは、賛成派も反対派もどちらの意見も一理あり、ふつうは保守と革新でハッキリと分かれるのですが、保守・革新関係なく主張が分かれました。

 

しかしながら、たくさん本を読んでいるうちに段々と「どうもこちらの方が正しいのでは?」というのが薄々わかってくる感じがします。

 

まともな考えの持ち主で、信頼できる著者というのが何人かいるのですが、その人たちがどちらを是とするかによって、正しさの判断基準としています。

 

今回のコロナも、どう対処すればいいのか誰もわからない未知の問題です。

 

コロナ対策強硬派と穏和派、あるいは抑制第一派と経済優先派に分かれており、今までは前者が力を持っていました。

 

しかしながら、まともな人ほど「コロナを過敏に扱ってはいけない」派であるような感じがします。

 

日本でのコロナの年間感染者数は31万人ほどで、死者は4,400人ほどです。

 

インフルエンザの年間推計患者数は約1,000万人で「間接死」込みの死者数は約1万人なので、これに比べるとあまりにも少ないのです。

 

しかもコロナの場合は「感染者」数をできるだけ拡大し、無症状者まであぶり出した数字で、死者も「死因を問わず」死亡時に検査陽性であればすべて「コロナ死」に計上した数字なのに、インフルエンザとは比較にならないぐらい少ないわけです。

 

いまだに20歳未満は1人もコロナで死んでいないのに、子供の自殺率が49%も上昇したとのこと。

 

コロナ禍は、恐怖を煽り立てたテレビ禍そのものだと思うのです。

 

 

継続できればO.K.

私は昭和生まれで、専業主婦の母親と、専業主婦の妻と生活してきたので、今まで自分で炊事・洗濯をしたことはほとんどありません。

 

掃除は鍵山流掃除道5段(勝手に言っています)なので、自宅の掃除にも力を入れています。

 

炊事・洗濯・掃除のほかにも「名もなき家事」というのが結構あり、ついそれらを無視してしまうのですが、案外そこに時間を取られていることに最近になって気がつきました。

 

しかしながら、ちょっとした片付けなどの「名もなき家事」を怠ると、途端に部屋などが乱れだすのも事実です。

 

モノが多いと、時間も取られます。

 

また「やるべきこと」や「やりたいこと」が多すぎると、結局何もできないままで終わり、挫折感だけが残ります。

 

やっぱりシンプルライフしか方法はないように思うのです。

 

私も自分の能力以上の目標を持ち過ぎる嫌いがあるのですが、やるべきことを毎日淡々と実行できたなら、それで満足すべきだと思うようになりました。

 

一応現役のビジネスマンなので仕事もしているのですが、どちらかいうと夜のルーティンワークの方に気合が入っています。

 

夕食前の1時間の語学の勉強と、夕食後の3時間の読書タイムは知的生活のコア部分でもあり、これを今から30年間続けたならば、そこそこのものになるのではないかと思っています。

 

「車勉」も「ヨコ勉」も最近になって始めたもので、その威力に驚き「どうして若い頃からやっておかなかったんだろう?」と思うのですが、やっぱり今になって「機が熟した」ということなのでしょう。

 

 

謙虚な不動産投資法

個人で500億円もの借入れをし、それをすべて不動産投資に充てている人がいます。

 

講演もチョクチョクされており「ここまで大規模にしてしまうと、逆にリスクが減るのかもしれない」などと思ってしまうほどでした。

 

この人は中学を卒業したあと新聞販売店に勤めたのですが、仕事がよくできたため、年収2,000万円を切ることはなく、年収5,000万円の時もあったそうです。

 

が、この人が破たんしたとの報道をネットで見ました。

 

私はこの人には会ったこともなく、微塵も悪意を持っていないのですが、やはりそういうやり方はアカンのだということがよくわかりました。

 

不動産投資で破たんした個人投資家を、今のところ私はあまり知らないのですが、こんな不動産投資の権化のような人でも破たんするのだから、世のサラリーマン投資家と呼ばれるような人たちは大丈夫なんだろうかと心配になります。

 

これはあとでユーチューブで見たのですが、高級時計を数十個持っていたり、高級外車も20数台所有したりしているようで、たしかにこれは余分な散財だという気がします。

 

これは私の持論ですが、不動産投資家はハデな動きをしたり、有名になってはダメで、そうすると嫉妬を買ったり、徴税機関に目をつけられたりするからです。

 

不動産投資での手残りのキャッシュは、将来の修理費や次の投資のために置いておくべきで、そのお金を生活費や贅沢に使ってはいけないと思うのです。

 

お金のかかる趣味は持たないというのも、不動産投資家にとっては大事なことかもしれません。

 

私の知人で美術品や骨とう品を、趣味で今までに累計3,000万円ほど購入してきた人がいるのですが、事情があり売ったところ、売却額はたったの20数万円だったそうです。

 

 

 

兜町の風雲児

40年ほど前に兜町の風雲児として名を轟かしたNという人がいます。

 

「投資ジャーナル」という、株式投資を指南するメディアで、全国の個人投資家から莫大な会費を集めていました。

 

N氏は近江八幡市の出身で、中江藤樹の子孫だという触れ込みだったのですが、真偽のほどは分かりません。

 

ただ頭は良かったようで、高校生の時の模試で数学が全国で3位だったそうです。

 

小学生の頃から株を勉強しており、株の見通しについては、その頃から近所で有名だったようです。

 

あまりに株の方が忙しくて大学に行く機会を失い、そのまま株の世界にドップリとハマり込みました。

 

次第に頭角を現し、相場のカリスマになるのにそんなに時間はかかりませんでした。

 

投資家からいくらでもお金が振り込まれてくるので、銀座で毎晩数百万円の散財をしてもどうってことはなかったようです。

 

政財界のトップクラスの人たちとも人脈ができ、そうなるとますますカリスマ性に磨きがかかります。

 

が、やがて既存の大手証券会社などから反発が来るようになり、途中は省略しますが、結局「詐欺罪」で逮捕されてしまいます。

 

「株だいすき少年」がどこでどう道を間違ったのかはわからないのですが、最後は東京の下町のボロアパートの火事(原因は寝たばこ)で亡くなっています。

 

家族も友人も仕事仲間も去っていき、生活保護を受けていたとのこと。

 

栄光の時期とのあまりのギャップに声を失ってしまいます。

 

私が勝手に「反省」すると、やはり奢りがあったことは否めないし、銀座で豪遊している間にタチの悪い人脈をつかんだのかもしれません。

 

やっぱり「地道に、息長く、一生働く」ぐらいが、ちょうどいいように思えるのですが、いかがでしょうか?